あゝ金沢城(金沢市)  山崎桂花 作詞 馬場花子 作曲
                                  紅 東勉 作曲   白石十四男 補作曲・編曲

1 青葉薫る城下町 辰巳の流れ水清く

  歴史はめぐる幾星霜(いくせいそう) 伝統(う)けて栄えあり

2 白雲(はくうん)なびく老松(おいまつ)や 見渡す加賀路日本海

  石垣あおく(こけ)むして (いらか)も白き石川門

<漢詩>          <口語調>

憶昔雄藩長威振       昔を想う雄藩の 長く威を振るいたるを

悠々文化更生輝       悠々たる文化は 更に光を生ず

尾山城下仰空立       尾山城下に 空を仰いで立てば

過雁一声絃月微       (か)(がん)一声絃月かすかなり

3 異境に果てし南坊の 広めし教え加越能

  梅ヶ香匂う庭広く 昔を偲ぶ金沢城

◆天正11年(1583)、前田利家公が金沢城に入り、その直後から本格的な城造りが始められた。キリシタン大名として知られる高山右近を招き、築城の指導を仰いだと伝えられている。慶長7年(1602)落雷により消失した後、天守閣は再建されず、本丸には、三階櫓と二の丸には御殿が建てられた。寛永8年(1631)の火災後、二の丸の拡大や辰巳用水の通水などにより城の構造が変化する中で、武家屋敷も城外へだされた。内堀を掘り、土を(か)き上げて各曲輪が区面されていった。

宝暦9年(1759)の火災では、城のほとんどを焼失した。その後の再建では、実用性を重んじ、二の丸を中心とした整備が行われ、本丸の再建はできなかった。細工所が新丸から堂形に移されたのもこの時期である。現存する石川門は、天明8年(1788)に再建されたものである。今、一部の櫓が再建なされているが、興隆栄えた当時をほかに石垣だけが忍ばせてくれる。
◆平成13年、3層3階の菱櫓と橋爪門一の門続櫓を2層2階の五十間長屋を復元、平成22年、河北門の復元、平成27年の橋爪門二の門と玉泉院丸庭園の復元がその威容が除々に表している。
 平成27年、橋爪門二の門・玉泉院丸庭園とともに復元した。
◆平成27年橋爪門一の門が復元オープン、また、平成27年3月、玉泉院庭園が復元オープン。ここは、加賀藩の2代目藩主前田利長の死後、その正室であった永姫がこの場所に屋敷を構えたことから玉泉院丸と呼ばれるようになった。玉泉院丸は歴代藩主が京都から庭師を招いて少しづつ改修されて庭園が確立された。