加賀鳶木遣りくずし(金沢市)

 

1 ハアーアーエーエー加賀の鳶だよ百万石の

  (まとい)振るにも火柱越えて 男伊達なら命をかけて

  (エンヤラヤ サノヨイサヨイナ エンヤラヤレコノセー アレワエンヤーヤラヤー)

  〔以下はやしことば省略〕

 

2 ハアーエー衿にゃ加賀の鳶(で)(ぞ)あと、出初めの時は

  勇み裸に梯子をたてて 夢の枕にゃあら吹き流し

 

3 ハアーエー加賀の華だよ知らせの半鐘

  ジャンジャンジャンと鳴りゃ纏を持ちて 梯子鳶口気合を入れて

 

4 ハアーエー 木遣り音頭に三団そろえ 

  祝い祭りや百万石の 心合わせて火事場の守り

 

     加賀藩では、江戸における5代藩主綱紀のときに防火組織が強化され、藩主の火消し役のほかに92人のとび職を雇って消防隊員とした。加賀藩が有名になったのは、享保3年(1718)12月3日江戸本郷弓町の大火の時、幕府の定火消し役の仙台兵庫の鳶と、火口の先陣争い大喧嘩になり、江戸町奉行大岡越前守らの裁きで加賀鳶が勝ったという。後に江戸火事場を守っていたのが加賀藩で、その江戸屋敷に詰めていた鳶たちが江戸末期〜明治初期に流行した「江戸木遣り」を覚え、故郷の金沢に持ち帰り、唄ったのが、この唄で東北では「七之助音頭」や「相馬土搗き唄」等として広く知られる。この唄のルーツは、伊勢神宮の遷宮式に唄われた「木遣り唄」で格調高く全国に広く分布し、「祝い唄」や「土搗き唄」「祭り唄」等にも転用され、伊勢信仰の流布に預かった神人や大神楽、願人坊主たちの手による伝播もあって、各種の芸能の中に入り込んでいった。曲は「江戸木遣りくずし」を転用している。金沢では、毎年1月4〜6日出初式には、学校区ごと(校下)に擁している自衛消防団の加賀鳶たちの一斉放水、梯子登りは有名である。 

(加賀山昭編「全楽譜・北陸の民謡集」から引用)